弱っているときに近寄ってくる人について

私の家庭環境は正直言ってあまりよくない。

そもそも家庭環境なんて比べるものでもないし、衣食住が取れない、家が無いというレベルではないが、おそらく、一般的な家庭と比べて家族が病気したり不幸な目にあったりという出来事が多く、人生がだいぶ早送りに感じられた。

まだ若干20代ではあるが現時点で父は亡くなり、母も先は長くない。

 

不幸が発覚する都度、私を助けてくれる人にたくさん出会ってきた。

話をたくさん聞いてくれたり、暖かいご飯や声援をくれたり、色々なアドバイスをしてくれたり、料理を教えてくれたり。感謝してもしきれない人たちだ。

 

だが、同時に弱っている私を自己承認欲の餌にしてしまう人も少しだけ現れる。

例えばそんな人が友達と思っている人だと、弱った心にはダメージになってしまうし

新しい偏見も生まれてしまって精神衛星上とても良くない。

  

弱っているときに声を掛けてくる人の中には一定数、

”弱者救済をしている自分” が好きな人がいる。

弱者に寄り添うことで何かが満たされるといったタイプだ。

名称が長いので”擬似救済者”とでも呼ぶことにする。

 

今回は、なぜ擬似救済者が発生してしまうか発生原因を3つに絞って持論を述べようと思う。

もちろん実体験なのでサンプル数は少ないし、助けてくれる人がそんな人たちばかりではなく、心の底から慈愛を持って助けてくれる人たちのお陰で今日まで生きてこれたことを忘れていない。

 

 

安部公房曰く、

”弱者への愛には いつも殺意が込められている”

この価値観は擬似救済者の真髄みたいなものと考えている。

 

 

【発生原因①:話掛けるハードルの低さ】

コミュニケーションにおいて話の掛けやすさは非常に重要になる。

"腰が低いと話掛けられやすい、態度が横柄だと話掛けられずらい"

といったコミュニケーションのハードルから察するに、

”弱っている人” は話掛けるには最強にハードルが低い状態だと言える。

駅のポスターでも「何か困っていますか?」の声かけを推奨しているため

もはや弱者への声かけは大義名分の担保付きだ。 

 

擬似救済者は会話のハードルに軸を置き、本質である”会話の内容”は二の次のため

結果、そういった本質外を気にする、特に心の底から助けたいわけでもない人たちが一定数混じることになる。

 

尚、自分が不幸であることを言いふらす必要などない。

落ち込んだ顔をしているだけで寄ってくるため、不幸が物理面に出てきやすい人は被害に遭われたことが多かっただろう。

 

【発生原因②:絶対的な善】

弱者を救う事自体が、動機はどうであれ”絶対的に善である”こととなる。

それが例えば車椅子の押し方が正しくなくても、手伝った結果遠回りな作業が発生したことになっても、本人の自己満足で不幸話の自慢大会になっても、間違った知識を前提に弱者救済を訴えても、そういったアクションを起こすこと自体が善活動なのだ。

 

「やらない善よりやる偽善」

この言葉はたしかに良い言葉のように感じるが、実際には

「理解や状況把握した上でやる偽善」

が一番正しい偽善だと思われる。

 

具体的には、荒んだ家庭環境や障害に対する正しい知識を身につけることが一番だ。

中には本人にしか気持ちが分からないため触れてほしくないことだってあるため、本人が言い出すまで待つほうがいい場合もある。

 

弱っている人間に対しては、”これ以上不幸が起こらないように努める”ことが最大の善である。

新しいことをさせようとしたり、擬似救済の実体験に寄せて理解していると伝えることはお門違いである。

 

【発生原因③:擬似救済者自体が救済されていない】

 これはもはや生育レベルの問題なのでこれ自体が救済できない。割愛。

 

 

 以上の3点から、擬似救済者が発生しては弱っている人間を餌にして自己承認欲を満たすためだけに話を聞きかじり、終いには自分もそのレベルまで不幸だから頑張れだなんて見当違いの意見を吐き捨てて帰るだなんてことが発生する。

 

 

不幸な目にあっている当事者としてはもはや避ける方法は無い。

違和感があった時点でコミュニケーションを切り上げるのが最前の方法だとは思うが、冷静になってからで良い、FOすることを推奨する。

 

彼ら彼女らは絶対にボロを出す。

例えば不幸でもなんでもないのに自分も不幸だと言い出す、当事者に向かって"頑張れ"と言う、持論や自分のエピソードを聞かせ始める、スケジュールを考慮せず誘ってくる、など。

その予兆が出てきたら一度距離を置こう。

友人関係を続けてきたのなら尚更、友人が醜く承認欲求を満たす様を見てしまうなんて余計に不幸な出来事だから。