社会保障は誰からも愛されない人のためにある

社会保障と言えば少し前に話題に上がった自治体の家賃補助制度や生活保護、その他障害年金など、困窮に陥らないためのセーフティーガードとしての役割を担っている。

 

生活保護受給者について、身近には居ないけれども彼らに関わる仕事をしている人の話を聞く限り、人間性や性格に多少の難がある方が多いようだ。

(人間性という言葉も曖昧な定義でよく理解はできないけれど。)

 

また、金勘定ができない、金銭管理ができず気がついたらお金が無くなっている、会社に適応できない人など。

人間性という教科書を用いるならば、教科書には当てはまらない人たちなのだろう。

また、親から愛されず、人の愛し方もどことなく不器用でうまくいかなかったり、付き合い方や距離感がわからず愛される機会が無かったり。など。

 

私個人の想いだが、生活保護などの社会保障はそういった、誰からも愛される機会が無かった。けど生きてていいんだよっていう制度だと思っている。

 

資本主義社会では、賃金を稼ぐために働かなければならない。私たちは小学生の頃から集団行動で適応できるように訓練を受けているが、どうしても環境に合わない人だっている。

それは環境に合わない人が悪いのでは無く、適合した環境に巡り会えなかった運の悪い人だと思ってる。

 

困窮だってそうだ。たまたまお金を借りれるだけの信用が無かった、助けを求める勇気が無かった、人はたまたま不運になってしまうことだってあるのだ。

 

そういったたまたま不遇な境遇に置かれる可能性は誰しもが持っているものだと思う。

 

でもそれは巡り合わせが悪かっただけで、そういった生きにくい人たちが生きてて良い権利を国が保証してあげること、それこそが社会保障の意義ではないだろうか。

 

生活保護バッシングや、弱者に対する偏見を見聞きする度にそう思う。

 

この価値観は最近になって持つようになった。

それこそ『最貧困女子』や『死体格差』を読んで、さらには父の死を経て得た価値観だ。

 

弱い立場の人はたまたま運や巡り合わせが悪くて、本人ではどうしようもできないことがある。

出生から立ち返るならば、私たちはたまたま日本で生まれて、たまたま衣食住に困っていない親の元に生まれて、たまたま高校や大学に行けて、たまたま社会生活を送っているにすぎない。

 

その逆だってあることも忘れてはいけない。

 

たまたま日本に生まれたものの、衣食住が保証されず、家計は火の車なのに社会保障に巡り会えない、お金のリテラシーや貨幣価値の教養を持たないために貨幣が保存できない、我慢ができない、怪我をしたのにお金が無いから医者に連れて行ってもらえない。

 

私が今ここで療養しながら、ブログを書けているのなんて奇跡に等しいんだということを、忘れずに生きてゆきたい。